「どこかの時点で情報量や実行力で産業界が霞が関を上回ると思いました」と目の前に座る古谷さんは語る。
戦略コンサル、証券会社、ファンドを渡り歩き、ビジネスとファイナンスに深く携わってきた古谷さんは、十数年前は元通産省(現経産省)の官僚だった。
そして、いま目の前に” 経産省 新規事業創造推進室長 “として、「出戻り官僚」として、霞が関に戻ってきた経緯について丁寧に話をしてくれている。
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「出戻り官僚」という単語は2019年4月、日経新聞の紙面にも躍り出ました。
民間企業で”超優秀”と呼ばれた元官僚の人々が想いを持って、再び霞が関に戻ってくる。
それはなぜなのか、その一人である古谷さんに直接取材をしました。
そこからは官僚に限らない、これからのビジネスパーソンが理解すべき『役職と役割の大きな違い』が見えてきました。
目次
【自問】政府は何ができるのか、何をするべきなのか
― 古谷さんが入省された当時の霞が関というのはどういった状況だったのでしょうか。
私が入省したのは、1990年代初期でした。
当時は、消費税の導入による直間税比率の見直しや財政赤字といったことが議論されていて、公務員志望の学生は財政改革や高齢化問題を好んで議論をしていましたね。
通産省では、日本からの自動車や半導体の輸出が外交問題となり、アメリカとの通商交渉に向けて不公正貿易報告書を創り始めていた時代です。
財政と通商の問題が今後の日本を豊かにするための二大テーマだったので、大蔵省(現金融庁および現財務省)や通産省(現経産省)、外務省が非常に人気がありましたね。
― 入省後はどうでしたか。
花形部署だった産業政策局、通商政策局、大臣官房などに若者は希望を出すんですが、私は最初に資源エネルギー庁の石炭部に配属されました。
― 石炭部。ちょっと、、、いや、かなりいぶし銀な感じが。
相当な変化球ですよね(笑)
通商政策が~~、産業構造が~~、と頭で勝手に思い描いていたら石炭。
「何をするんだろう」って思ってしまって(笑)
ただ、結果的に非常にいい経験でした。
私が入った時期は、石炭政策最後の10年間と呼ばれ、縮小産業である石炭を雇用と経済の両面からソフトランディングするという大仕事があったんです。
伸びる産業がある一方で必ず存在する縮小する産業の社会的なロスを最小限に抑える構造調整は必要不可欠なことですが、成長産業に比べれば人も多く割けないので1年生ながら、権限もそれなりに持たせてもらえ、国会議員の先生に資料を持って説明もしました。
そして、2年目では石炭によって起きる地盤沈下などの鉱害について。賠償や原状回復を図るために鉱害の認定、補助金交付と被害相応の工事の施行をしてもらうといったことをしました。
例えば壁のヒビが、地盤沈下によるものか劣化によるものか一つで、どれだけ家がきれいになるかが変わる。
非常にセンシティブな仕事でした。
― 非常にヘビーでもある仕事ですね。
ただ、3年目になり、機械情報産業局に移ります。
自動車、産業機械、半導体、家電など今度は成長産業で、当時の通産省で一番花形と呼ばれていた局です。
その局の電子機器課に配属になり、PC、FAXや半導体業界を所管しました。
翌年に日米半導体交渉を控え、半導体や液晶の大規模な研究開発プロジェクトも控えていました
<機械情報産業局に配属された古谷さん>
― 産業革命から一気にIT革命といった変化ですね(笑)
石炭部では今あるものをどうするかでしたが、機械情報産業局では新しい情報を摂取し政策を提案したりと発信源となる機会が多かったです。
役割は大きく違いましたが、両極端な経験が出来て非常に良かったですね。
― 大変ながら充実した仕事なのがお話から伺えます。民間に移られる契機はそのあと訪れたのですか?
はい。
当時、日本は半導体で世界一になっていましたが、アメリカというメルクマール(指標)に追いつこうとしていた時と違い、先頭を走ると独創性が求められてくる。
すると、予算・税・財務という伝統的手法で支援をすることが難しくなってきたと感じていました。
それともう一つ、どこかの時点で情報量や実行力で産業界が霞が関を上回ると思ってもいました。
そう直感し、ビジネスサイドのモノの見方を是非自分で目の当たりにしたいと考えるようになっていったんです。
そして、1997年にシリコンバレーに留学させてもらい、現地のエコシステムで国はどのような支援を行っているのかを見に行き、スタンフォードでも政府が共同研究開発にどう寄与するかを論文にしたのですが。。。
指導教官に「 政府が出来ること? アメリカでは政府主導の研究開発プログラムは大失敗だ 」と言われました。
私は「いや、政府の役割もあるだろう」と食い下がりましたが、「ない」とばっさり。
通産省のロジックは西海岸では全く通用しなかったんです。
彼らの考えでは、規制には政府は関与するが、育成には関与しないと。
帰国後は、もやもやしつつも原子力産業課に配属され、そこで東海村JCO臨界事故が起きました。
― ちょうど20年前の9月30日ですね。とても大きく、痛ましい事故でした。
急遽、当時の科学技術庁に出向を命じられ、「災害対策基本法の原子力版を創れ。同時に、事故再発防止のため原子炉等規制法を改正せよ」ということで、2か月間平均睡眠2時間くらいで無我夢中で走りました。
そして、法案成立後に達成感を覚えつつも、国策として原子力エネルギーを推進しつつ、原子力事業の主体は電力会社であるという原則論の中で、政策の責任の「どこからどこまでを政府が担うのか」という疑問に悩みました。
そこで、改めて西海岸で抱いたビジネスへの憧憬について考え直し、スタンフォードで一緒だったベイン・アンド・カンパニーのコンサルタントと会食する機会を得て、ビジネスの世界から世の中を見つめ直したいと思い、7年勤めた通産省の退職を決意しました。
【研鑽】看板ではない、抜き身の”自分の価値”
― その後、経産省に戻るまでの間、ベイン・アンド・カンパニー、UBS証券、アドバンテッジ・パートナーズ、岩手県の産業復興相談センター、丸の内キャピタルと様々なキャリアを歩まれていますが、どういった想いや軸があったのでしょうか。
まず、通産省の看板抜きで、自分自身が企業の戦略を左右できる提案が出来るようにならないといけないと思いました。
その修行に戦略コンサルはうってつけでした。
そして、ベイン・アンド・カンパニーでコンサルとして様々なプロジェクトにアサインされてビジネスを分析し、チームやクライアントと議論し、提案を形作っていくうちに、自分の現在位置として、定性分析は得意だが、定量分析の経験やスキルが及ばず説得力が足りない。
もっと定量分析の能力を深めていかなくては一人前にはなれないと思い、あえて数字しか扱わない、数字しか問われないUBS証券の証券アナリスト、中でも自分の名前でレポートを書いて機関投資家の投資判断の材料を提供するセルサイドアナリストの道へ移りました。
― 定量分析が苦手だから、証券会社に入るって凄い極端に振れますね(笑)
そして、証券アナリストとして毎年出るランキングに名前が乗るようになってきたところ、俯瞰して物事を見てコンフリクトの調整をするという役所の経験とコンサルで培った定性分析やコンサルテーションスキルがあり、定量的な経済分析やバリュエーションも証券銀行でできるようになったということで、今度はそれらを合わせた統合的な仕事がしたいと思うようになりました。
それで、次に進んだのがPEファンドのアドバンテッジ・パートナーズでした。
企業の経営課題の発見や解決のサポート、コスト削減等のプロジェクトマネジメントが分かるコンサルのエッセンス、定量的な経済分析とバリュエーションが出来る証券アナリストのエッセンスを両方用いてみる。
その中で利害関係の所在の把握やキーパーソンに働きかけて皆が納得する選択をしてもらうためのプロセスを考える、という点において役所の経験も活きるじゃないかと。
それに、1990年代終わりに業として解禁されたPEファンドは、2004年に自分が転職してきた時にはまだ黎明期、成長期でしたが、これからはアメリカのように経済を動かすメインプレイヤーになっていくと思っていました。
― なるほど、繋がってきました。ちなみに、UBS証券に入られたのが定量分析の苦手意識からということですが、普通は苦手分野には転職しないものです。そうしたキャリアを歩むモチベーションの源泉はどこにあるのでしょう。
ライバルの存在ですね。
通産省時代の同期で、早くに転職してずっとマイクロソフトのシアトル本社で世界有数のビジネスマンと切磋琢磨しているやつがいる。そいつが日本に帰ってくるといつも情報交換をするのですが、昔から「こいつには負けたくない。自分もなんでもできるようになりたい」という想いがありましたね。
実は、コンサルタントから証券アナリストへの転職もそいつの後押しがありました。
自分の名前で勝負するにはうってつけだぞ、と。
そして、コンサルは会社対会社の関係が前提で、自分はチームの一員として動きますが、証券アナリストは、会社に所属しつつも個人名でランキングが出るという「 大勢から見た自分の価値 」を問われる競争社会です。
苦手を克服し、そこで自身の名前を市場に売るというチャンスとも感じていました。
【自答】自分だからこその「役割」を見出す
― そして、PEファンドを経験したのちに岩手県の産業復興相談センターに移られたのも興味深いです。
2000年代半ばからファンド、キャピタリストなどの活動が活発化し、世間ではライブドア事件や村上ファンド事件などが起きる中で、自身は健全なキャピタリストとしての役割を常に意識して総合スーパーのダイエーの事業再生や喫茶店のコメダの事業承継などの大きな案件にも関わっていきました。
その過程でリーマンショックが起きた。
経済全体が大きな混乱状態となる中、ファンド業界全体が四苦八苦する状況に立ち向かっていきましたが、その矢先に東日本大震災が起きたのです。
私も投資先企業に詰めて計画停電対応をしたりしましたが、なんとか自分の身の回りは落ち着いてきたGWになって岩手の陸前高田などに当時の会社の仲間とボランティアに向い、「なんて、酷い状況だろう」と呆然としました。
通産省を辞めてから10年以上の間、いわば資本主義をクリスタライズしたプレイヤーの一人として、経済合理性や利潤最大化を突き詰めてきた私は悩みました。
「 給与は下がる。でも、いま一度、公の仕事をするべきではないか 」
そして、経産省が復興支援のための官民ファンドを立ち上げるというニュースを見るとともに、それに昔から信頼する先輩が関わっているのを知りました。
「二重ローン対策」と呼んでいますが、被災事業者の債務の整理と新規融資の獲得による事業再開のサポートという、経済合理性と公益性をギリギリと両立させる、複雑な判断が迫られる事業です。
「 官民両方を経験した自分だからこそできることがある 」
「 ならば、やってみよう 」
そう、思ったんです。
― 官僚経験者の取材をすると良く思うのですが、「社会の中の自分の役割」の意識レベルが非常に高く、また割合も明らかに多い気がします。何か理由があるのでしょうか。
19年間、民間を経験したからその対比で分かることですが、霞が関にいる人は公の心をもって社会課題の解決に貢献したい、そのような思いを秘めている人が多い。
更に言えば、民間に行けばすぐにでも給与等の労働条件の待遇が上がるような人たちが、それでも霞が関で熱をもって動いている。
そんな人間がひと塊になっている空間は、日本では霞が関にしかないと思います。
民間に転出したのちも、私もそこにいた身として、昔の仲間から見て恥ずかしくない自分でいたい。
その気持ちが、「 社会の中の自分の” 役割 ” 」を常に考えさせ、行動に一定の枠と基準を設定してくれたのだと思っています。
【使命】ビジネスとファイナンスのプロフェッショナルとして
― そして2019年、名前の変わった古巣でもある経産省に戻って来たわけですが、どうしてそこでの「役割」を見出されたのでしょうか。
私は、バブルは終わりかけていましたが、日本経済がとてもよい時代に社会人になりました。しかし、その後の30年間弱、どんどんこの国のプレゼンスが下がっていくのを目撃した世代でもあります。
振り返れば、民間で一途にプロフェッショナルとして働き、経済的には何とかやっていけるようにもなりましたが、その中で自分が社会にどれだけ貢献できたか、経済課題の解決にインパクトを与えることができたかを考えた時に、実は私は霞が関を辞めたあの頃から特別な何事もなしえていなかったのではないか、と。
いま、霞が関は若手の相当数が辞めていく現状にあります。大企業にも同じ傾向があるとも聞きます。
そのこと自体が悪いこととは言い切れませんが、いまの社会制度や経済状況を作り上げ、国の進むべき方向性を不透明化させ、そこで働く人のやりがいを減らしてしまった、官庁や大企業の現役のマネジメント世代に相当の責任があります。
今年に入って経産省で管理職の公募制度というものが立ち上がり、多くの方の支えや勧めもあって公募に応募することになり、私はこの9月1日から「新規事業創造推進室」の室長に着任しました。
ベンチャー企業の育成支援を主に推進していきます。
やるべきこと、できることはたくさんある。
私のように霞が関にも身を置いたことがあり、民間でビジネスとファイナンスに携わってきた人間だからこそ、政府がなすべきビジネス界へのサポートをより効果的に実行できる可能性は十分にあると思っています。
スタートアップ・ファーストの姿勢を政府が示し続け、グローバルなユニコーン企業が生まれるエコシステムの構築に少しでも貢献することが私の役割だと思っています。
そのために戻ってきました。
― 経産省のスタートアップ支援だと「J-Startup」がありますね。
私の所属はその立上げ部署ですので、「J-Startup」は更に拡充・強化していきます。
「J-Startup Supporters」という名だたる大企業等100社以上の企業が加盟するグループがあり、そことスタートアップの連携を図っていくつもりです。
経産省は、これまで伝統的に個社支援は控えるというスタンスでしたが、今は「スタートアップ・ファースト」。社会的意義のあるスタートアップの成長とグローバル展開に向けてマイクロに支援していこうと考えています。
<「J-Startup Supporters」の加盟企業の紹介ページ>
【進境】自分のやりたいことを求められてできる人へ
― 今回のキーワードのひとつは「出戻り」なのですが、戻ってきた時の受け入れられ方はいかがでしたか。
周囲からの反応については、最悪のシナリオも考えていました。
私の辞めた2000年前後は官僚の退職はレアケースでしたし、民間にいたころにも多少は経産省と仕事はしたものの、目を掛けてくれた組織を自らの意思で辞め、戻るまで19年間もスキップしたんですから。
ですが、、、正直なんの違和感もなかったです(笑)
同期、先輩、後輩から暖かく迎え入れられました。
そして、着任した新規事業創造推進室の仕事に限らず、経産省内部でビジネスとファイナンスの知識やスキルの披瀝が求められる機会も多く、面白くて仕方がないです。
私は有名企業・無名企業とか、役員であるとかそういう「 役職 」にあまりこだわりがないんです。
通産省を辞めるときにも、「 知識や経験を生かして、自分のやりたいことを人に求められてできる個人 」になりたいと思ったんです。
退官して19年も経ちましたが、ようやくその状態に近づけているような気がします。
― 古谷さんの培った経験とスキルがカチッとはまった感じがしますね。組織の決める「 役職 」ではなく、周囲や自分の要請がはまった「 役割 」を大事にされているんですね。最後に、古谷さんのような生き方は今後増えていくと思いますか。
目先の仕事よりも、もう少し先を見据えて、そのためにいまを経験するような生き方。
若い方は特に増えてきているのではないでしょうか。
私の世代はそういう生き方は少なかったですが、私自身は自分が「 こういうことができる人間になりたい 」と思い、そのようになれたと周りから認められ、信頼する人から求められる状況はとても有難く思っています。
経産省が出戻り管理職を認めるのであれば、より柔軟であるべきビジネスの世界でも同様の動きがもっと起きていいと思います。
色々な経験をした人間の価値を同じ組織で生きてきた人間がフラットに見て、組織なり社会なりで有効活用するには覚悟が必要かもしれませんが、どんどんそういうことが起きて欲しいですね。
❖編集部後記
濃厚なお話に聞き入ってしまい、大幅に予定していた取材時間を超過してしまった今回のインタビュー。
古谷さんはとにかく「思慮深く、カッコいい大人!」でした。
そんな、古谷さんが率いる新規事業推進室が取組む「J-Startup」。
スタートアップも、オープンイノベーションを推進する企業も、是非アクセスしてみてください!
▼スタートアップ企業の育成支援プログラム「J-Startup」
https://www.j-startup.go.jp/
(取材協力:経済産業省|編集・取材:深山・原|撮影:深山)
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